• 『死生観』を養う

     死生観を養うと人生が180度変わる。『死生観を持つ』とは、自らの死に方を定めるということである。

     私の死生観は、『死ぬ時は死ぬ』というシンプルなものだ。いたってシンプルだが、この覚悟を持っているか否かで生き方、困難の乗り越え方に雲泥の差が生じる。

     人間の最も美しく尊い生き方は『自らの命よりも大切なもののために生きる』ことだと私は考える。昔の武士は自分の命よりも名誉を重んじ、名誉のためなら命を捧げた。現代においては、親が我が子のために身を粉にして働くことや、いじめられている友達を救うために、自らを危険に晒して助けるなどが具体的な生き方だ。

     命は『命よりも大切なもの』の次に大切なものだ。そのため、命の終わり方、すなわち『死』について明確な考えを持っていれば、人生上のあらゆる困難は『死』よりも程度の低いものであるから、さほど苦しむことなく乗り越える基盤が出来上がる。この上ない強さを手に入れることができるのだ。仮に人生上で命よりも大切なもののために死ななければならなかったら、死ねば良いだけだ。

     死生観を養うには、文学で美しい死に方をした人間の死に方を体感し、歴史的書物(古典や哲学書)で理論的に言語化して理解するという方法が良いと思う。

     『死ぬ時は死ぬ』と本気で思っていれば、いかなる困難に遭遇しても『死んだら仕方ない』と潔い諦めをつけることができ、無駄な不安や恐怖に苛まれることもないため、結果として最も強い生き方ができるのである。

     あなたも死生観を獲得して強く生きよう。

  • 『孤独』について

     孤独という言葉を聞くと、暗くマイナスな印象を抱かれる方が多いと思う。しかし、孤独とは美しい言葉であり、日本人が抱いている『孤独』のイメージは実は『孤立』なのだ。

     『孤独』と『孤立』は正反対の言葉である。孤独とは『自己固有の運命に生きる決意をした人にのみ開かれる、独りで生きる生き方』であり、孤立とは『社会の圧力に負けた人間が、独りで生きる生き方』だ。

     日本的な表現をすれば、『孤独』とは『求道』と言い換えることができる。永遠を志向して、崇高なものを求め続けることによって、孤独は開かれるのだ。例えば、茶道を極めるために、崇高なものを志向して、ただ独りで生きる、このような生き方を『孤独』という。孤独とは美しく、崇高なものなのだ。

     反対に孤立とは、社会の圧力に負けた生き方だ。一般的に想像される孤立とは、友人や家族がいない状態、などであるが、それ以外の孤立もある。

     大多数に流され、個性を失った生き方をしている人間もまた孤立している。仮に友人や家族に囲まれ、幸せを感じていても孤立している。

     令和の時代に蔓延る社会保障は、人間の精神を蝕む害毒でしかない。社会保障は障害者等の必要性があらかじめ認められる人間にのみ、適用するべきであって、健常な人間の生活が困窮した際に金銭的に補助することは甘えでしかない。

     このような『保証、安定』に手綱を握られた人間は孤立した生き方なのだ。すなわち、安定を求めてサラリーマンになった人間も、『安定』という社会の圧力に敗北しているから孤立している。すなわち友人や家族がいない人間と孤立という点では同じなのだ。

     人間は、ただ独りで生まれ、ただ独りで死ぬ。自己固有の運命を愛した人間にのみ、運命は開かれる。孤独を愛した人間にだけ、崇高な生き方ができるようになる。

      『孤独』という言葉の語源とされている詩がある。柳宗元の『江雪』だ。大意としては、鳥も全くいない千山の中で、笠を被った一人の翁がただ独りで寒江の雪の中釣りをする、というものだ。

     本来『孤独』は美しい意味合いを持つ言葉。我々も己の運命を愛し、孤独な生き方をしたいものだ。

    参考文献:『根源へ』執行草舟

      

  • 『いじめ』について

     学校や会社など、集団で行動する際に起こりうるのが『いじめ』である。いじめには加害者と被害者がおり、一般的に加害者が悪いとされるが本当にそうだろうか。(加害者が良いとは言っていない。)

     『いじめられていて、可愛そう』と思うのは少しおかしいと思う。いじめられるには、それ相応の理由があるのである。言動が鼻につく、能力が高くて妬まれやすい、など被害者は無意識に嫌われる原因を作ってしまっている。『人間は社会的動物である』と誰かが言ったように、私たち人間は少なからず他者と物理的・精神的交流をしなければ生きていけない。その点、仮に被害者の能力(運動能力や知的能力など)が高くても、集団に溶け込む『協調性』という能力が欠如しているのであれば、集団から排斥されることはやむおえないことなのではないだろうか。

     例えば、駅伝を想像してほしい。他校と競争をする中、チームの中で一人だけ極端に足の遅い人間がいたらどうだろう。表面上は励ますかも知れないが、多くの場合内心では除け者にされるのではないだろうか。

     それと同様に、対人能力が低ければ、コミュニケーションを取る学級などの集団において除け者にされることは仕方がなく、ましてやなんの能力もない人間が除け者にされても、仕方がない。

     しかし、私は『いじめ』を肯定しているわけではない。なぜなら、他者の行為が気に食わないという理由で、いじめを行い、加害者になる者は、集団で個人を攻撃することしかできない、精神が未熟な人間であって、加害者に非は当然あるからである。

     そうであっても、被害者が俗にいう『被害者ずら』をして、担任や上司、親に助けてもらうことを待つというのはおかしい。

     なぜなら、対人能力、協調性が足りないが故にいじめられているわけであり、そこで第三者が介入し、法的措置等の何らかの強制力を働かせたところで、被害者本人の対人能力は一切向上しないからだ。仮にその先再び同じ状況に出くわし、誰も助けてくれない状況に陥った時に、最も困るのは被害者本人なのだ。

     だから、一見冷酷に感じるであろうが、本人が自分の力で解決するのを見届けるのが、最も本人のためになる手段であると考える。

  • 親孝行について

     子供が大人になると、育ててくれた親への感謝から、『親孝行』、『恩返し』を試みる。『親孝行』といえば、温泉旅行や車のプレゼント等のサービスや物を連想する方も多いかもしれない。中には大学受験を成功させることが親孝行だと考えるひともいるようだ。

     しかし、本当の『親孝行』とは一味違ったものだと私は思う。本当の親孝行は『親からもらった愛情を、今度は自分が他の人に与えられるようになること』だと思う。親に直接恩を返すことが親孝行とは限らない。もちろん母の日に花束等を送ることは、感謝の表現として大切な行為だと考えるが、物をあげることよりも、愛を与えられる人間になることのほうが、徳の高い親孝行だと考える。

     親の前で人助けをすればいい、という話では当然ない。むしろ、親の前では一度もそのような機会に巡り会うことがなかったとしても、親の見ていないところで、誰かに愛を与えられる人間であることが何よりも重要だ。

     そうやってみんなが、もらった愛を他者に与えることができるようになったら、一人が二人に愛を与えるだけで、この世界はみんな愛に包まれることになる。でも、今は、もらった愛に気が付かずに、自分の欲望を満たすためだけに生きている人が多いから、困っている人が多くいる。

     だから、仮に大学受験で失敗したところで、親孝行が失敗したわけではない。親は恩返しをしてほしくて、愛やお金を捧げているわけではない。いい大学に入って、高級取りにするために産んだわけではない。自分の子供が元気に育って、立派な人間になることを見守っていることが何よりの幸福なのだ。

     あなたが子供を作ることを決心したとしても、そうだろう。子供が自分を助けてくれるだろうから産む、なんて理由で産みやしないだろう。可愛らしいその姿を少しでも長く見ていたい、そう思うから産んで、子供のために頑張るのだろう。

     だから、あなたが立派な人間になり、他者に愛を与えられる存在になれば、親孝行は完了するのだ。

     立派な人間になるには、日々のより良い情報に触れることが必要だ。潜在意識に良い情報を貯め、実在意識と潜在意識が一致することによって、信念を生み出し、自らの発する言葉や、自らの行いを本心から愛情に満ちたものにするためである。

     そのためには良書に触れ、文学に浸ろう。人生の出会いと別れなど、たかが知れている。書物の中の『出会い』、『別れ』に触れることで、自らの心に文学性が生まれ、先人たちの強く尊い生き方を受け継ぐことができる。

     

     

  • 個性について

     今回は『個性』について、私の考えを述べさせていただきたい。

     近年学校教育を中心に『個性を伸ばす』カリキュラムが組まれている。『個性』と言う言葉を聞くと、あたかも先天的に自分自身に何かが与えられていて、植物の発芽のように自分の内側から他人にはない特徴的な性質を出現させることだと考えている人が少なくない。もしくはお騒がせアイドルやストリートかぶれをして髪を染めたり、ピアスを派手に開けている人に個性を感じる人もあるかもしれない。

     そんな『個性?』を発芽させるために、『個性?』を持っている憧れの人を見つけ、真似をしてみるがとても自分には合わないと気がつき挫折、そんな繰り返しをしている若者が多い。『自分を持っている人が羨ましい』と若者はいう。しかし、自分を持っている若者などいないと大胆ながら主張させていただきたい。

     単刀直入に言って、この世に『個性』を持って生まれてくる人間は誰一人としていない。絶対音感等の特別な能力は才能であって、その人唯一の『個性』ではない。わがままさ等の性質は我が強いだけであって『個性』ではない。『個性』とは文化・文明を徹底的に踏襲した上で初めて現れるものであって、決して偶発的に自らの内部から無から生まれるものではない。

     茶道・花道には『守破離』の教えがある。先人の教えを徹底的に学び、自らのものにして、初めて自分流が生まれるという教えだ。『個性』も同じだ。日本文明が築き上げてきた文化や哲学、知恵などを文学や哲学書等の書物を通して徹底的に学び、自らの潜在意識に打ち込んで初めて、自らが日本人的存在のスタートラインに立てる。その後、自分の生き方と日本文明が結びつきそのとき初めて個性と呼べるものが開花を迎える。

     歴史を学んでいない者が、『個性がない』と嘆くことは、ガゾリンを入れていない車に向かって、走らないと嘆いているようなものである。必要なものは自ら取捨選択して取り入れなければ始まらない。

     従って、『個性』を開花させるためには、文学、歴史的書物を読み込んで自らの中に破り、離れる価値のある文明を携えなければならない。それは個性を獲得するという欲求を満足せしむるのみならず、本人の生き方、考え方が歴史に根ざしたものとなるために、魂を最重要視する歴史的な生き方ができることにつながるであろう。

     

     

     

     

  • 『ロバート・ツルッパゲとの対話』 ワタナベアニ

     ユーモラスなタイトルと斬新な表紙で始まる本書は、写真家のワタナベアニが写真家独自の視点で世の中を斬る、爽快な哲学入門書だ。言葉の使い方や話の展開が巧みで、読者を飽きさせないよう細心の配慮がなされている。

     『得をしないために書いた』と筆者が言う本書は、ブランド物や地位、名誉や貧富など誰かが開いたレースに知らず知らずのうちに出場させられてしまった、生きずらさを感じている日本人に読んでほしい。自己紹介をするときに自分以外のもので、お金を払えば誰でも買えるもので勝負を仕掛ける心の貧しい日本人が多い。それは自己紹介ではなくタコ紹介であって、『玉ねぎの皮が厚く、芯がない状態』だとアニは言う。

     我々の社会は恥の文化から罪の文化へと成り下がってしまった。日本的、古典的なbeingの文化からアメリカ的、近代的なdoingの文化へと落ちぶれてしまった。それによって、何が自分であるかではなく、自分は何をしたかに重きが置かれてしまい、結果として、年収や地位、名声など所謂玉ねぎの皮の厚さで競争を始める幼稚な社会と成り果てた。

     哲学とは『子供の視点を取り戻すこと』だとアニは言う。大人になるにつれて、多くの言葉を獲得する反面、無意識のうちに獲得してしまった暗黙の了解に挟まれて思考停止に陥ることが少なくない。哲学を学ぶと言うことは、この世界の知識や常識に色を塗られた大人が、裸の王様を指摘した子供のように、冷徹で本質的な眼差しを再度獲得するという尊い行為なのだ。

     『働く』ことは『我慢をする』ことなのか。我慢をして稼いだお金でブランドものを買い、クレジットカードの請求書と毎月鬼ごっこをすることが人生なのか。子供の頃、夢に描いた未来像はそんな奴隷像ではないはずだ。やりたいことをやって、好きに生きる、そんな人生設計図をいつ無くしたのだろう。いつから『お金になる』ことだけを考え、『自分のやりたいこと』に目をつぶるようになったのだろう。『現実を見ろ』、『好きなことだけじゃ生きていけない』と善人の仮面をつけた大人は親切心で足を引っ張る。でも彼らは生きるために食べているのでなく、食べるために生きている。いつから自分の子供の夢を金銭に換算するようになったのだろう。彼らの心には文学がない。豊かな心がない。そんな大人の声は音色でなくてノイズだ。

     やりたいことはできるうちにやっておこう。

    本書があなたの飛躍を助けるものとなりますように。

     

     

     

  • 『盛大な人生』 中村天風

     中村天風はパナソニック創業者の松下幸之助を初め、大谷翔平や京セラ創業者の稲盛和夫、歴史上の人物では東郷平八郎や元首相の原敬など、各界の頂点を極めた人々が揃って心服した不世出の大哲人だ。   

     華族に生まれた彼は、軍事探偵として幾度となく死線に立ち、自らが患った結核を治すために偶然の出会いからインドで修行を行うこととなった。そこで培ったヨガの知恵を日本で初めて伝承し、銀行の頭取や大日本製粉の重役等の一切の地位を投げ打って、大道説法に転じた、波瀾万丈の人生を生きた人物である。

     本書『盛大な人生』は彼の成功哲学として『潜在意識の活用』を一貫して解いており、人生において大切な『信念』の醸成法が書かれている。一般に『信念を持て』、『信念が大切だ』などと言われるが信念とは何かを教えてくれる人は少ない。ましてや信念をどうすれば持てるのか、信念を獲得すると何が起きるのかを教えてくれる人などいない。

     単刀直入に言おう。信念とは『実在意識と潜在意識がピッタリと合わさった状態』のことであり、明確なゴールを頭の中でイメージし続けることによって実在意識が潜在意識を変え、両者が一致することで信念が形成される。さらに信念を獲得することで、自分の心が周囲の心に同化力を及ぼせる状態となり、実現可能なことであれば、どんなことでも実際に実現できるようになる状態になれるのだ。ただしここで述べた『実現可能なこと』は動物的欲望を満たすものではなく、霊性生活を促進するものであると言うことを忘れないでほしい。人のためになることであれば、どんなことでも実現可能なものは実現すると言う意味合いだ。

     本書の中で一つ『信念』を象徴する具体例が挿入されていたので紹介したい。最強の剣士と言われた宮本武蔵と殿様の会話だ。殿様が『お主は一度も負けたことがないな。敵が弱いのか』と武蔵に聞いたところ、武蔵は『今までの敵は皆とても強かったです。』と答えた。そこで殿様は『では、この戦いは負けるかもしれない、と思ったことはないのか』と聞いたところ、武蔵は『私は勝ち負けと言うものを考えたことがございません。殿様はご飯に毒を盛られているか否か、考えながらご飯を食べますか。』と答えた。この答えに殿様は悟るものがあったという。信念と言うのは勝ち負けや善悪などの相対論、二元論を超越したものであると同時に、実在意識と潜在意識がぴたりと合わさっているがために、迷いや不安など心を消極的にする負の想念が心に湧いてこない状態なのだ。

     この信念の醸成法は近年注目を浴びている『コーチング』のゴール達成法に著しく似ている。コーチングとは企業やスポーツ選手など特定のゴールを持つ個人又は集団が、より目標を達成しやすくなるように、その思考プロセスをコーチと共に改善していくものだ。そのコーチングではゴールを設定して、そのゴールを徹底的にイメージすることで潜在意識をコントロールし、心に負の想念が起きないようにセルフコントロールすることで、ゴールを達成しやすくしている。ただしここで言う『ゴール』は現状の延長線上では決して達成することのできない目標をゴールといい、かなり抽象度が高い目標でなければ、ゴールになりにくい。つまり、ある会社の社員がその会社の社長になることは延長線上で、ありうる話なのでゴールにはならない。反対にA社のサラリーマンがB社の社長を目指し、それによって、日本産業を活性化させたいのであれば、現状の延長戦ではないし、少々抽象度が上がっているのでゴールになりうる。この時、抽象度が高い目標であれば、必ずと言っていいほど、他者のためになること、すなわち中村天風のいう『霊性生活』を満足させる要素が入っていると専門家は言う。

     中村天風の書を愛読する人物の一人に大谷翔平がいる。彼は抜群の身体能力でMLBのMVPを勝ち取ったかのように報道されることがほとんどだ。しかし、私はそれらに加えて彼が霊性満足の生活をしていることが何よりも彼を偉大なプレイヤーにした要因であると考えている。『二刀流でメジャーで活躍したい』という誰もが笑った夢を一切疑わずに信じ続けることによって実在意識と潜在意識がピッタリと合わさり信念が形成され、『野球少年に夢を与えたい』という彼の純粋な思いが彼を霊性生活におくこととなった。その証拠として彼は食にも女にも興味のない、すなわち動物的生活には一切執着せず、霊性生活に入ることができている。そして信念を持った彼の心は同化力をもち、彼が打席に入った時の球場の雰囲気は格別なものとなっている。

     歴史上の偉人を見て言えることは、誰しもが偉大なゴールを頭のキャンバスに鮮明に描き続け、信じ続けることによって、未熟な人物から偉大な人物になっていると言うことである。偉大な目標を掲げ続ける人物には、偉大になるための情報が必ず与えられる。反対に、自らだけの幸せに執着して生きるものには、それ相応の情報しか入ってこない。我々が今どこにいて、過去に何をしたのかではなく、どんな未来を思い描くかによって本当に未来が変わる、我々はそんな世界に生きている。どんな未来を思い描くかによって、現在が代わり過去への解釈も変わる。未来を変える力を持つのは現在の想念である。明確な偉大な目標を持ち続けることが何より大切だ。

     日本はお互いの足を引っ張り合うことが多いように感じる。妬みや嫉みが多い。そんな世界を私は変えたい。失敗してもいいから挑戦した人を讃え、挑戦しやすい空気を作りたい。

     『盛大な人生』は日本人の心を強く清く尊く正しくしてくれる書物です。

    あなたの人生を変えてくれる名著であることを願って終わります

  • 『根源へ』 執行草舟

    筆者、執行草舟は「葉隠」に生きる現代の武士だ。読書家、実業家、芸術家等、多彩な顔を持つ彼は、齢69にして3万冊の古典を読み込んだ日本人の魂だ。本書で彼は「死生観を持つことの大切さ」を一貫して解いており、ルネサンスのヒューマニズムに端を発する、物質主義、功利主義、合理主義を完全に否定している。死生観、つまり死に方を定めることで日々の過ごし方が変わり、得を求めず不合理な生き方を覚悟して生きることで、運命に体当たりをし、精神、魂を成長させることができるのだ。魂に生きた人物の一例として鑑真を挙げている。中国にて最高の地位を築いた鑑真が、一切の財産や地位、皇帝からの信頼を投げ打ち、ただ法のために自らの命を危険に晒してまで、日本に法を伝えたのだ。彼の生き方に我々の魂は共鳴し、日本人の魂は鑑真の慟哭を感じる。自らの命よりも大切なもののために生きること、すなわち魂を成長させる生き方をすることを筆者は「垂直の生き方」、「憧れに生きる」と表現している。我々は垂直に生きなければならない。

     令和の時代は垂直に生きることが難しい時代になってしまった。電車や街中の至る所に広告を貼り、購買欲を徹底的に煽ることによって、消費者を先導し、物質主義の波へと彼らを無意識のうちに飲み込んでしまっている。テレビやYoutube等の映像媒体も小学生が理解できる程度の簡単明快なフィクションを垂れ流すことで、我々なにも考えることなく、ただ映像を消費する受動的な視聴者と成り果ててしまった。スポーツや映画、ドラマは政治への関心を巧みに避ける駒であることを認識せず、日常の最上の楽しみに成り果ててしまった。しかも、その内容は功利主義や物質主義、合理主義を背景に潜め、視聴者の潜在意識へと静かに入り込んでいく。上記のような実態が我が国の現状だ。なにも考えずに生きていれば『水平な生き方』つまり魂を手放す生活、物質優先の生活になってしまうことは已むおえないことがわかるだろう。魂を手放せば令和の時代には得がしやすくなり、お金は稼ぎやすくなる。しかし、魂を手放すということは日本を建国し、日本のために命を尽くしてきた先人たちの歴史を断つことに他ならない。

     しかし、魂を現代でも保ち続ける方法が一つある。それは読書だ。魂に生きた人物の書物を読み漁り、特に古典に深く触れることによって、先人との魂の交流を果たすことができる。本書は古典を3万冊読み込んだ筆者の生命の滴が至る所に散りばめられている。

     

     人生に悩む全ての人が読むべき魂の一冊。さぁお試しあれ。

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