学校や会社など、集団で行動する際に起こりうるのが『いじめ』である。いじめには加害者と被害者がおり、一般的に加害者が悪いとされるが本当にそうだろうか。(加害者が良いとは言っていない。)
『いじめられていて、可愛そう』と思うのは少しおかしいと思う。いじめられるには、それ相応の理由があるのである。言動が鼻につく、能力が高くて妬まれやすい、など被害者は無意識に嫌われる原因を作ってしまっている。『人間は社会的動物である』と誰かが言ったように、私たち人間は少なからず他者と物理的・精神的交流をしなければ生きていけない。その点、仮に被害者の能力(運動能力や知的能力など)が高くても、集団に溶け込む『協調性』という能力が欠如しているのであれば、集団から排斥されることはやむおえないことなのではないだろうか。
例えば、駅伝を想像してほしい。他校と競争をする中、チームの中で一人だけ極端に足の遅い人間がいたらどうだろう。表面上は励ますかも知れないが、多くの場合内心では除け者にされるのではないだろうか。
それと同様に、対人能力が低ければ、コミュニケーションを取る学級などの集団において除け者にされることは仕方がなく、ましてやなんの能力もない人間が除け者にされても、仕方がない。
しかし、私は『いじめ』を肯定しているわけではない。なぜなら、他者の行為が気に食わないという理由で、いじめを行い、加害者になる者は、集団で個人を攻撃することしかできない、精神が未熟な人間であって、加害者に非は当然あるからである。
そうであっても、被害者が俗にいう『被害者ずら』をして、担任や上司、親に助けてもらうことを待つというのはおかしい。
なぜなら、対人能力、協調性が足りないが故にいじめられているわけであり、そこで第三者が介入し、法的措置等の何らかの強制力を働かせたところで、被害者本人の対人能力は一切向上しないからだ。仮にその先再び同じ状況に出くわし、誰も助けてくれない状況に陥った時に、最も困るのは被害者本人なのだ。
だから、一見冷酷に感じるであろうが、本人が自分の力で解決するのを見届けるのが、最も本人のためになる手段であると考える。